2014年9月20日土曜日

懸垂下降時のロープ連結方法を変更した


より高グレードを登るためには新しい方法や道具に貪欲な反面、安全技術に関しては案外保守的なのかもしれない
生命に直結するという意識があるから、安全性を高めるための変更であれば柔軟に受け入れるが、利便性を理由に変更することには少なからず抵抗感がある

2014年9月15日月曜日

合同集中捜索を10月10日から13日に実施予定

8月の捜索時のババ平BCでのひとコマ
クライミング飛鳥というクライミングジムのメンバーである
頭が下がる


昨年10月に回収された独標直登ルート終了点のデポ品は土橋さんが独標まで到達していない可能性示唆するものだった
これを受けて北鎌沢の右俣と左俣を重点的に捜索した


まずは村田、斎藤、佐藤で捜索用リファレンスマップ上の北鎌左Dの合流点付近まで肉薄した。これを受けて10月末ヘリコプターによって死角となっていた北鎌左Iから北鎌左Aまでの各支流と北鎌右のすべてをくまなく舐めた

これらの捜索により、土橋さんは北鎌沢出合から奥には入っていないとの仮説を取らざるを得なかった
となると東鎌尾根ということになる
東鎌尾根の槍沢側の谷は確認済なので、天上沢側の谷が残った。昨年10月末のヘリコプター捜索では、遅くまで雪渓が残ることが確認されていたので、谷の捜索は、その雪渓が最も後退するタイミングで実施するのが合理的ということになる
9月などの中途半端な時期に谷へ入っても「雪渓に覆われていました」で終わってしまうのは明らかだからである
雪が来る直前の10月中旬がベストとなる

2014年9月14日日曜日

息子と登った30年ぶりの一ノ倉沢


息子と二人でおよそ30年ぶりに一ノ倉沢を登った
なぜ30年も登っていなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれない
このあたりの事情を知るクライマーも少なくなった。リアルタイムでこの時代を生きたクライマーとして事情を簡単に解説しておきたい

1970年代末の日本の登攀界は、行き着くところまで行っていた
蒼氷の雄山忠氏らにより例えば奥鐘山正面壁のOCC、広島、京都などが4時間から5時間で登られるようになり、一日で2本継続までも行われるようになった
一ノ倉沢でも衝立、烏帽子奥壁、滝沢第三スラブの三本継続がワンデイされるようになった
それは冬期にまで及び、「岩と雪」のクロニクルを賑わしていた
そんな中で1978年12月1日今野和義氏が冬の衝立で単独登攀中に墜死したのである
今野氏は高見和成氏や近藤邦彦氏らと並ぶ当時の日本登攀界の巨人だった
伝え聞くところによればロープによるビレイをしないで登っていたという
まともなビレイによる時間ロスを回避した結果だったのだろうと推測する
つまり、そのようなことが行われるほど日本の登攀界は閉塞状態だったのではないか